東日本大震災から10年経とうとしています

10年前のあの日のことは一生忘れられない。

あの日の話は体験した人それぞれで違うものであるが、いつもとは違う非日常であり、仲間やお客様、様々なかたとそれぞれの体験を話すことが時折ある。

 

あの体験を文章に興すのは初めてであるが、10年経って今覚えていることを書き留めておきたい。

 

 

3/11の午後、客先との打合せを終え、帰社途中に震災に遭遇した。

 

地下鉄に乗ってつり革を持ちながら立っていたのだが、急ブレーキが掛かり電車が停止した。最初は何が起きたのか分からなかったが、車内アナウンスで大きな地震があったことを知った。

停車している間にあった3回ほどの余震で、かなり大きな地震だったことが分かった。

(小規模の地震で余震を伴うことは稀である)

しばらくして電車は次の停車駅まで徐行運転し、大手町駅に着いた。

 

駅につくと、またアナウンスが流れた。

「現在地下鉄、JR含む、全ての電車が止まっております。この電車もいつ頃動くか分かりません」

 

乗り換えも出来ないのか。それではしばらく待つかと思い、空いた座席に座ってから会社にメールした後、自宅に電話した。

当時Willcomを使っていたので、震災時にも通信制限がかかっていないことが幸いした。(他の携帯会社は制限がかかっていたので、通話はできなかったらしい。)

子供たちは皆自宅に戻り、昼寝していると聞いて安心した。

 

しばらくすると、駅のアナウンスが流れた。

「現在大津波警報が出ています。駅構内のお客様はすぐに避難をして下さい」

 

津波ってどういうこと?と思い、地下鉄の駅から地上に上がることを決意して駅を降りた。海水が駅構内に流れてこないことを祈りつつ、後ろを歩く人がパニックになることのないよう走ったりせず、階段を足早に登っていくと地上に出た。

 

足元見ても水は無かった。

東京には津波は来ていなかったと分かって少しだけ安心した

曇り空の下、多くの人がパニックになることなく歩いていたので、また安心した。ヘルメットを被っているスーツ姿の人も何人かおられた。

 

市原の自宅まで歩くのは土台無理なので、そちら方面の電車がある秋葉原に行って、ついたら型落ちのマザーボードを探してみようと思い、秋葉原まで歩いた。しばらくして電車が動き出したらそれに乗って帰ろうと考えた。

 

この時点では全く状況を把握できていなかった。

 

秋葉原の家電量販店に入ったものの、マザーボードは欲しいものが在庫には無かった。久しぶりの秋葉原なので、他にも何か買おうかなとも思ったが、電車が動かないとなると荷物が面倒になるので買い物は取り止めた。

 

量販店から出ようとしたとき、TV販売コーナーで東北地方の港の津波映像が流れていた。見たことのない大波で、人の乗っていない漁船が、うねりに任せて上下左右していた。港を見下ろす高い位置からの映像だったが、固定カメラではなさそうなので、撮影しているカメラマンが大丈夫なのか心配になった。

 

えらいことになったな。

この津波では助からない人も出てくるだろう。

震源は東京近くではなく、遠く離れた東北の地震でこれだけ揺れるとは。

想像してたより相当酷い。

 

現実を振り返ると1人になった自分自身のことを考えなければならない。

 

ホテルに泊まるとしても、タクシーに乗るとしても、役に立つのはキャッシュである。

まずは現金を下ろすことにした。

 

地震の影響でキャッシュディスペンサーが使えないことを心配したが、いつも通りに現金を下ろすことができた。少し多めの額を引き出した。

懐が温まり、1つ心配事が消えた。

 

銀行で携帯を見ると会社からのメールが返ってきていた。

会社には戻らずに各自安全に帰宅せよとのこと。

 

秋葉原駅に向かうと、人がごった返しており、駅構内に入ることができなかった。駅入口にも辿り着けなかった。

メガフォンマイクを持った駅員さんのアナウンスを聞くと、本日中に電車が動き出す可能性は低そうだった。

 

今から急げばホテルに宿泊もできるだろうが、まだ明るいので、歩けるところまで歩こう。

自宅の市原までの徒歩(約60km)は無理なので、まずは市川(25km)の実家を目指そう。

 

今履いている革底の靴は長距離を歩くのには不便であること、長距離歩くには自転車のほうが楽で速いことが頭に浮かんだ。

2つを手に入れられたらそうしようと思い、靴屋、そして、自転車屋を探しながら、実家近くを通る蔵前橋通りを目指した。

 

早速、浅草橋駅の近くにゴム底の靴屋を見つけ1500円の歩きやすそうな靴を購入し、履き換えた。革底の靴はかさばったが、これ位の荷物なら持ち歩けないことは無い。そして、長距離歩くための準備は整った。

 

次に蔵前橋通りで自転車屋を見つけたが、自転車は売り切れていた。

皆考えることは同じなので、売り切れてしまうのは当たり前なのだが、少しがっかりした。

 

しばらく歩くと、また、自転車屋があった。

そこで自転車は残っていないか聞くと、1台だけ中古の折り畳み自転車があるという。

車輪が20cmほどのこぎ難そうなもので3万円弱というが、背に腹は変えられない。残り1台。他にはない。

3秒考えて購入することとした。自転車に乗って市川を目指せば、徒歩よりも少しは楽になる。

 

蔵前橋通りはひどく混雑していて、車は全く動けないほど渋滞していたが、自転車は車の間を抜けていけるので、原付バイク並に速く進むことができる。

車輪の小さな折り畳み自転車ではあるが、実際、自転車より少し幅の広い原付は車間のすり抜けが難しい箇所で停車せざるを得ないため、自転車のほうが速いときもあった。

車でしか通ったことのない道や橋を自転車から眺めると、今までとは違った風景に見えた。

3月はまだ暖かい季節とは言えず、日中は暖かさもあったものの、日暮れとともに寒くなってきた。

 

東京から千葉方面に歩く人が次第に多くなってきた。逆方向に歩く人は皆無だった。

歩道を歩いて帰宅する人を見ながら、渋滞した自動車車線の隙間を走り、実家まで駆け抜けた。

 

ちょうど19:30に市川の実家に着いた。

実家の親も元気で怪我もない様子。

 

(後から聞いた話では、東京駅近辺から歩いて帰った近所のかたは、23時過ぎにようやく帰宅したらしい。)

 

シャワーを浴びた後、TVニュースを見て今日の災害を知ることとなった。

北日本の沿岸は全て津波警報が出されたままで、耳につく警報と共に各地の被害状況がレポートされていた。津波にさらわれた木材が燃えている映像を見て、流された方々が生きて戻れるのかどうかとても気になった。

各地で数十名単位の死者数がTVに映っているのをただ呆然と眺めていた。

 

参考:東日本大震災 - Wikipedia